元レーシングドライバーでモータージャーナリストの太田哲也氏が校長を務める「Tetsuya OTA出光 ENJOY&SAFETY DRIVING LESSON with Volkswagen」が6月28日、袖ヶ浦フォレスト・レースウェイで開催される

同イベントはサーキットを使って行うセーフティドライビングスクールで、テーマは「安全運転を、楽しく学ぶ!!」。単にサーキットを速く走るためのスクールではなく、injured ZERO」を掲げて、クルマの操作方法を理論と実践で学び、実際に講師の言葉や運転に触れて、日常の安全運転に役立てようというもの。

VW・ゴルフ GTi

教習車両には、フォルクスワーゲン グループ ジャパンの協力により、『ゴルフGTI』、『ゴルフR』が登場する予定。体験試乗会や、太田哲也校長を始めとした講師陣の運転する車両に同乗できるサーキットタクシーも行われる。

プログラムは、座学やVW最新モデルの同乗走行などを盛り込んで基礎をしっかり学べるエンジョイ・ドライビングレッスン、同じく座学を受けてサーキットを走るセーフティ・サーキットレッスン、フリー走行を楽しみ、さらにはタイムアタック大会スパタイGP」に参加できる「スポーツ走行会」の3クラスを設定する。スパタイGPはハンデ戦を取り入れた年間シリーズ戦をクラス毎に行っており、シリーズチャンピオンにはブリヂストン「POTENZA RE-11A」4本が贈呈される。


 

太田 哲也(おおた てつや、1959年11月6日 – )は、日本モータージャーナリスト・元レーシングドライバー

1982年にレースデビュー。その後、当時レーシングチームを経営していたチェッカーモータース兼子眞に見出され、富士グランチャンピオンレースなどに参戦。1987年からは全日本F3000選手権に出場。1989年にはマツダワークス契約を結び、全日本F3000に加えて全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)などにも出場する。1990年には篤子夫人と結婚。1991年マツダとのワークス契約終了

1993年から1996年までル・マン24時間レースにイギリス・シンプソンチームからフェラーリ348LMで出場。日本人ではじめてのル・マンでのフェラーリドライバーとなった。1995年からはフェラーリの準ワークスチーム的存在のフェラーリ・クラブ・イタリア・チームからフェラーリ・F40GTEで出場。これによるフェラーリ社との関係により、日本国内で開催されるフェラーリのワンメイクレースフェラーリ・チャレンジレース」の講師や、全日本GT選手権に参戦するフェラーリ・F40のドライバーを務めることとなった。

1993年から「ティーポ」(ネコ・パブリッシング)を初めとする自動車雑誌への寄稿を開始、1995年からは日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員となるなど、モータージャーナリストとしても活動した。

1997年フェラーリインポーターの「コーンズ」とフェラーリ・クラブ・オブ・ジャパン支援の下、チーム・フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパンの代表に指名され、フェラーリF355GTを新規に自社製作、自らもステアリングを握り、全日本GT選手権GT300に参戦。初戦は最後尾からのスタートだったが、最後のオールスター戦で優勝した。 翌1998年5月、富士スピードウェイで開催された全日本GT選手権第2戦での事故で瀕死の重傷を負うが、その後の3年間の懸命のリハビリにより社会復帰した。(詳細後述)

事故から復帰までを綴った「クラッシュ」「リバース」(幻冬舎)がスポーツドキュメントとしては異例のベストセラーに。その後、高校生に向けた「生き方ナビ」、「世界でいちばん乗りたい車」「知識ゼロからの車選び」を執筆。 著書「クラッシュ」は奥山和由によってドキュメンタリー映画化され、自身も出演。

現在は事故の後遺症による手足の機能障害の為に、プロのレーシングドライバーとしてのキャリアを絶たれてしまったが、エッセイや自動車雑誌のインプレッション記事等の執筆活動の他、モータージャーナリストとしての活動、”TEZZO“ブランドでアルファロメオフェラーリ等のチューニングパーツの企画開発、そして40代以上のアマチュアドライバーにレース出場の機会を与える”TEZZO RACERS CLUB”の主宰、落ち込んで苦悩している人を支援しチャレンジを促す「NPO KEEP ON RACING」の主宰など、事故以前よりも精力的に活動している。

また自身の事故での経験を基にした「チャレンジ」をテーマに、講演活動を学校、病院関係、企業などからの依頼で行う他、 朝日小学生新聞と連動した「太田哲也小学校出張授業」も行っている。